ブックメニュー★「本」日の献立

今日はどんな本をいただきましょうか?

【悲しみの秘義】若松英輔

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若松さんは「100分de名著」で初めてお見かけしました。そこで取り上げていた本は”悲しみ”についての数冊でした。

東日本大震災について語られたとき、わずかに涙ぐまれたのを見ました。

近頃めっきり珍しくなったと思っていた、見ず知らずの人の悲しみに共感できる人だ、と分かりました。

それから若松さんに興味を持って何か読みたいと思い、まず本書にたどり着きました。

さまざまな本を題材にした新聞の連載エッセイをまとめたものなので、悲しみだけじゃなく読むこと書くこと仕事など、対象は思ったより広いんですが、さすがに心に響く文がたくさんあります。

意外だったのが若松さんの以前の仕事が企業の営業マンだったこと(今のお姿からは想像がつきません)。

それもかなりやり手だったということ。そのおかげで新しい会社の社長まで勤めたこと。

それなのに、人生の”転落”を味わったこと……。そして過去の苦い経験が今の若松さんをつくったこと。

若松さんが「悲しみ」にこだわりを持っているのは、個人的に喪失感を味わったんだろうとは想像がついていました。

愛妻を亡くされていました。

そもそも大学の文学部を卒業されているから、この道へ進むのは必然だったんでしょう。「悲しみ」がそれを後押ししたんだと思います。

ブログではまず「読むこと」と「書くこと」について取り上げます。

読書はアウトプットして完成するとはよく言われています。その中で引用は効率の良い”アウトプット”だと思っています。若松さんは「誰かの言葉であっても書き写すことによってそれらは、自らのコトバへと変じてゆく」と言っています。絵でいえば模写ですね。

引用は、人生の裏打ちがあるとき、高貴なる沈黙の創造になる。

ある言葉に惹かれる時、人生の何かが作用している。書き写す行為は自らのコトバにしようとする創造だ、ということでしょう。

書き手と読み手(読者)との関係を「読み手たちと分かち合えたらと願っているのは、私の〔提示する〕考えではなく、書くことの秘義である。」といい、それは読者も書き手であり、それぞれの密やかな行為なのです。

これを悲しみについていえばそれをなくすというより、寄り添うための行為です。そのために言葉を書く。

「よむ」については「現代人は情報を取り入れることに忙しく、不可視なものを「よむ」ことを忘れ、ひたすら多くのことについて知ろうとしている。」

ビジネス書とか読む時にこうなると思います。「重大な発見があるのではないかと強く身構えるとき(略)無意識に「重大なもの」が設定されてしまう。そして、その想定から外れるものを見過ごす。」

越知保夫(おちやすお)の「小林秀雄論」から「よむ」とは「単に文字を追うことではなく」「「空気の濃密な場所」へ赴き、言葉の奥にひそむ意味を発見すること」。

”高い”ところから「低い」ところへ。余計なものをそぎ落とし”ズームイン”していくような感覚なんでしょうか。

若松さんは「読み手」の”優越性”を明かします。

書き手は(略)作品の全貌を知らない。それを知るのは(略)読み手の役割

ところどころに書かれているんですが、本は読まれて初めて完成します。その特権を持つのは読み手のほうなのです。

 

本書であつかう「悲しみ」は”自分”だけではなく、対象があります。それは”愛する死者”です。

古来の日本人の悲しみの感覚は今と大きく違っていました。「愛しみ」や「美しみ」も「かなしみ」と読んでいました。

和歌とか詠んでみると分かりますが、死者とは限りませんが今そばにいない愛する人に向かって詠んだ歌が多いですね。

「かなしみ」は単なるそれではなくて「悲しみを通じてしか見えてこないもの」を表現するものです。

原民喜の【夏の花】が取り上げられています。私も読みましたが、淡々としたノンフィクションのような文体が、かえって悲しみを深くさせる効果があると感じました。

でも今思えば、淡々とした中に悲しみが亡霊のようについてまわっているんです。民喜はそれを追い払わない、むしろ存在を感じながら書き進めています。そこには沈黙の力強さを感じます。

若松さんはある一節に出会う前と後では世界が違って見える、と言っています。

悲しみとは絶望に同伴するものではなく、それでもなお生きようとする勇気と希望の証しである

悲しみでしか見えてこないものが本当の悲しみで、そこには自己と他者の存在が必要なんです。

古人が歌を作っていたことがそうだったんだろうけど、小林秀雄が言うように「悲しみに対して、精神はその意識を、その言葉に求める」のです。なぜかというと「魂にふれること、それが言葉に秘められた、もっとも根源的な働き」だからです。

「秘められた」ということが、それゆえに安易に感じると本質が分からなくなっていきます。なので現代は単なる悲しみになったんでしょう。

若松さんなど言葉を考える人々によって、悲しみは再び「かなしみ」の意義を提示されます。悲しみを言葉として表そうとする時、それは苦痛から調えられるのです。

 

悲しみについて考えてきました。「考える」ことについての本も多く出ていますね。若松さんは「考える」についても一筆しています。

考えるとは、安易な答えに甘んじることなく、揺れ動く心で、問いを生きてみること

答えを出そうとしない、考えることこそ生きることと私も近頃感じています。考えることが”楽しい”。

何かを本当に知りたいと思うなら、心のうちに無知の部屋を作らなくてはならない。分かったと思ったとき人は、なかなかそれ以上に探求を続けようとはしないから

知ることに限界を作らないようにしたいものです。