ブックメニュー★「本」日の献立

今日はどんな本をいただきましょうか?

【戦争廃墟】石本 馨

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本書は写真家である著者が、日本の戦争遺跡を巡って撮影した写真集です。

一部は整備され見学できるところもありますが、書名にもあるように遺跡というより忘れられ、打ち捨てられた廃墟です。

石本さんは以前はまったくこういうものに興味はなかったようですが、戦争遺跡に接する機会があり、だんだん意識が変わったそうです。これらには例えば映画とは違う「リアル」な感覚がある。

自分の立っている世界に確かに戦争があったと言う実感(略)戦争にリアリティーを感じられない自分が突然、戦場に放り出されたような奇妙な感覚

「突然」状況が変化することは、実際兵士だった人々も常に体験しているのは、後にご紹介する元特攻隊員だった人のインタビューで分かります。

この「突然」が「リアル」さを感じる1つの要因かもしれません。平和な日常には「突然」はあまりありませんから。

 【戦争廃墟】の構成は石本さんの写真による各地の遺跡の紹介で始まります。

米軍との激戦地の1つ小笠原諸島。母島には海に向かって突き出た砲身を持つ砲台が残っています。

エメラルドブルーの穏やかな海面に突き出る砲身は、”届かなかった想い”というか何とも奇妙で悲しく見えます。奇妙さは現実に臨む美しさと破壊兵器である錆びた砲身のギャップからでしょう。

このギャップは【ダークツーリズム】で教えられた「旅のダイナミズム」です。

 掩体壕(えんたいごう)という軍用機を敵襲から守る格納庫が日本各地に残っていますが、高知空港そばにあるそれは、畑の中にあります。日常生活の中にはめ込まれた戦争の記憶。

石本さんが見た印象は「水田や畑と黒灰色の掩体壕は、見た目にも不思議なコントラスト」。

地元の人々にとって掩体壕は単に「邪魔な存在で、唯一の使い道は農業用倉庫や物置」しかないし、戦争遺跡はもはや日常の中で不思議な訴えもありません。

広島県大久野島には、昭和4年から終戦まで16年間毒ガス工場がありました。

ここも壁が見えないくらいツタが絡まる廃墟なんですが「いまだに国内では残存毒ガス兵器による事故が報道され、海外(中国)でも日本軍が遺棄したとされる毒ガス兵器をめぐってさまざまな問題が起きている。」

ひょっとすると大久野島をご存知の方もいらっしゃるかもしれません。いまは国民休暇村となり、何より”ウサギの島”として観光客に人気です。以前ニュース映像で見たことがありますが、すごいウサギと観光客の数に驚いたものです。でも今は、ここに戦争遺跡があることに驚いています。

かわいいウサギたちの姿とは裏腹に、いまだに”毒ガス”の影響が続いている……。ここにも平和との奇妙なギャップがあります。戦争を日常が否応なく呑み込んでいます。

特攻隊の証言

読み始めた時は石本さんの写真を中心に戦争について考えようと思っていましたが、後半は元特攻隊員たちのインタビューが収められています。証言こそ体験者しか語れないものなので、こちらもご紹介します。

本書には4つの特攻兵器が取り上げられていますが中から2つご紹介します。

通称人間魚雷といわれた「回天」。終戦時には第二回天隊隊長だった、小灘利春さん。彼は「特攻」のイメージと違うその実態を教えてくれます。

人間魚雷は「実現すれば自ら乗り込むことになる現場の若い軍人たちからの要望で実現したのです。」軍の中枢部のなかば無茶な思いつきかと思っていました。

”発案者”は何人かいたようですが名前が挙がっている人は、黒木博司大尉と仁科関夫中尉です。なぜ名が挙がっているのかを小灘さんはこう言います。

『自殺兵器の採用はまかりならん』との上層部の一言で却下され続けていました。その頑な海軍上層部に「人間魚雷やむなし」と言わしめたのは、自ら設計図を引き、血書をもって嘆願を繰り返した黒木大尉と仁科中尉の情熱です。

 現代の私たちの意識では理解しづらいのが”自ら命を投げ出す”感覚です。

小灘さんは「日本民族が生き残れるなら、自分の命は惜しくない。」と思っていたそうです。だから「貴様らは人間魚雷だ」と聞かされた時は「これでアメリカの上陸が防げると喜」んだのです。

”命を捨てる”という感覚じゃないんです。むしろ名誉なこと。人間はいつか死ぬんですから、その在り方の方が問題なんだという人生観。命は”自分一人のものじゃない”んです。

気になったのは「武士たる者かくあるべし」という言葉。回天の艇体には楠木正成の菊水紋。

自分たちは軍人ではなく、日本国の歴史を背負って戦う人間。近代戦を戦っていた意識は感じられません。ここに彼らが命をかけて戦っていた理由が垣間見られるのです。

通称人間爆弾といわれた「桜花」。終戦時には第七二一桜花隊分隊士、大尉だった鈴木英男さん。

彼は個人的には現実的な考えを持っているようです。「死ぬことに迷いは無かったと言えば嘘になります。たとえ国のために死んだとしても、家族は悲しむという懊悩はあります。しかしそれを乗り越えたところに気持ちはありました」

乗り越えた力とは何だったのでしょう。

桜花に搭乗しようとした時の気持ちは「要は早く講和してもらいたかった。日本が壊滅的な打撃を受ける前に少しでも有利な講和を導けるなら、命に代えても本望だった。」

幻想的な”日本の勝利”より戦後の日本全体の状態を考えていたようです。小さな家族単位より。次の言葉は非常に重いです。

「飛行機乗りになった以上、死んで初めて務めが終わる。」

桜花のレプリカが造られており、石本さんは写真に収めています。鈴木さんは零戦などと違いプロペラもない姿を「異様な飛行物体」と思ったそうです。

車輪のついた台に乗せられていますが石本さんは最初桜花の車輪と思ったそうです。しかし特攻機である桜花は”着陸しない”。「それに気付いた時、心が震えた。」

特攻兵たちが感じた”戦後”

小灘さんは回天を「人道的な兵器」と称します。私は”人間的な兵器”というものがあるんだろうか?と疑問に思います。しかし彼の言葉に耳を傾ければいかに悔しい思いを抱いてきたかが感じられます。

「特攻は日本をこの世に残し(略)自分の命は投げ出してもよいと納得した上の捨て身です。そういう多くの人に尽くそうとした人を評価し、敬わなかったら、誰が人に尽くすようになりますか。」

またメディアについても回天の情報を誤って伝えていると指摘(メディアの問題点です)。「回天=残忍で非人間的な兵器というイメージ、ひいては特攻隊に対する歪んだイメージが広められています。」

回天を人道的な兵器だということが怒りとともに表明されています。

鈴木さんも似たような気持ちを語っています。

「戦争が終わって、骨のある人たちは虚脱状態になってしまった。(略)かと思えば、ここぞとばかりに占領軍に迎合し、いい思いをしようとするオポチュニストも沢山出てきた。敗戦が日本人を引き裂いてしまったのです。」

第二次世界大戦の中でも「大東亜戦争」という時に考えなくてはいけないことも指摘されています。

「そもそも、あの戦争はなぜ始まったのか。(略)東洋で独立を保っていたのは日本とシャム(タイ)だけ(略)中国、インド、シナ(ベトナム)、フィリピン、すべて西洋人に食い物にされていた。日本人である我々がなんとか頑張らなければいけない(略)大東亜戦争が始まった時、国民は快哉を叫んだものでした。(略)なのに負けて占領軍が来たとたん、「私は戦争に反対だった」「やるべきじゃなかった」と言い出すヤツが続出しました。その影響は今でも続いている。」

戦争は命を懸けて戦った人々を思っても(いや、そうであるから)いけないものだという考えは変わりませんが、上の言葉は「いけない」が安易に彼らの行動を否定することにも繋がりかねないと、その複雑さが分かりました。

”図らずも”生き残った人々はまた別の複雑さを背負って、戦後を生きてきました。

石本さんの写した戦争廃墟のように普段は忘れられていますが、私たちも人間の宿命として考え続けなくてはいけない事実です。