ブックメニュー★「本」日の献立

今日はどんな本をいただきましょうか?

【「山奥ニート」やってます。】石井あらた

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本書の存在は以前から知っていて、中古で手に入れることができたので読んでみました。と言っても、そんな軽いノリではなく、けっこう深刻なんです。

私だって働きたくないと思っている、心の”ニート”なんです。

人間関係にずっと違和感を持っていて、働くことも実はイヤ。会社に行くことはもちろんシンドイ。森が好きなので、田舎暮らしに憧れています。

悶々としているいま【「山奥ニート」やってます。】は読むべきだと思いました。

あらたさんはあまり他人に興味のない人なんですが、その人が”NPOの代表”として「共生舎」を運営しているのは偶然とは思えません。しかも結婚もしている。

ご自身も言ってますが、ニートは出会いがない(ひきこもりなので)、恋愛もできない、なので結婚もありえない……。ていう訳ではないことを証明して見せたのです。

世に出る人の共通点があらたさんにもあって、導かれるようにそのポジションに今あるような気がしてなりません。

山奥で暮らすきっかけをくれた”ジョー君”と、初代NPO代表の山本さんとの出会い。

他人に興味がないと言っても”だれかと話したい!”の気持ちの強さはあったわけです。

でもどっぷりニート生活してた頃のあらたさんはこう考えていたそうです。「こんなクソみたいな世界、早く滅びないかな(略)自分を必要としない世界なんか、こっちから願い下げだ。自分で新しい世界を作ってやる。」

あらたさんの新しい世界、それが「山奥」だったんです。

ひきこもる範囲は自分の部屋から、この集落に広がりました。

本書出版時は15人のニートたちが暮らしていました。私も思いますが、いくら人間が嫌いと言ってもいきなり住んだこともない山奥にひとりで暮らせ、と言われてもそれは無理なことは分かります。

食事の一部を賄うために畑もありますが、初夏の仕事の折あらたさんはこう感じています「ただのニートが山奥で暮らせているのは、仲間がいるからだ。」

15人いればそれぞれ得意なことや好きなことも違うので、それを活かした生活ができます。

でもやっぱり人が集まればなにかしらはある。そこのところをどうするのか?あらたさんはニートたちの関係をこう言います。「友達と呼べるほど、親しい間柄ではない。」

ホッブスやルソーを挙げて「自然状態」に近いといいます。

ルールとかは何となくあるけれど明文化はしない。しちゃうと、しない人を”差別”し、最悪排除するかもしれない。

また「「自然状態」は人間の心情が豊かになっていくにつれ、徐々に崩れていくものらしい。」

言い換えると社会が複雑になるほど義務が増え、それができなければ”社会不適合者”と”適合できてる人”が呼ぶ、ニートのような人を生む。

山奥ニートたちの暮らしぶりを見ているとそれがよく分かります。

ニートの1人が言っていますが、この関係は原始時代の人間関係と近いんじゃないか。

繋がるところはつながり、一人でいたい時はいれる。

当ブログで紹介した【人は感情によって進化した】は現代人もまだ「野性の心」を残しているので、そのズレがあって感情の問題が生じている、としますが山奥での生活は”社会”があってもそのズレが感じにくいのかもしれません。

引き続きあらたさんが山奥で感じ取ったことを紹介しますが、それは「野性の心」が邪魔なものがあまりない状態で活動できるからこそ、思考も”健全”に働くんだと思います。自然には人間に心を取り戻させる力があるんですね。

山奥に住んでる、というと思い浮かべる心配事に自然災害がありますが「生きてりゃ死ぬこともあるだろうし、世の中死ぬ原因なんて無数にある(略)生き物って心配するようにできている(略)だけどその本能って、現代社会で生きるのに邪魔なこともあるんじゃないか(略)僕らの脳は野性のときと同じように、危険がないか常に気を張っている。そのせいでストレスを溜めているところもあるんじゃないか。」

見事に野性の心を残している現代人のズレを言い当てています。自然の中では感情についても気付くものなんでしょう。

さらに災害について、私もつい”もしもの時の備え”を考えてしまいますが、

備えは、怪我や病気をしたときのために貯金することじゃなく、自分ができることを増やしていくことじゃないだろうか。

街灯なんてない山奥の”真の暗闇”で、あらたさんが怖がりもせず本物の自由を噛みしめているのが印象深かったんですが、著者という人の(ひょっとするとニートという人種の)心はより野性に近いじゃないかと思う場面です。

 

ニートたちの日常は「なんとなく」過ぎていきます。「見ようによってはこの上なく堕落した生活。」「堕落」はあらたさんが”都会人の目”を持ち合わせていることを示しています。まぁ当然ですが。

しかし「競争相手もいなければ、管理する者もいないユートピア。」「なんとなく」は自主性の現れなんです。例えば話したい時にはリビングに行って自分の興味がある話をしてれば入ればいいし、じゃなきゃ入らなくてもいい。

ツイッターに似ている」と言っていますが、これって突き詰めると自分と違う意見は”黙殺”する危険もあるのでは、とちょっと怖い感じもします。私の思考は健全じゃないんでしょうかねぇ?

ついでに言っちゃうと、地元のお爺さんが近くで交通事故を起こした時「僕らはニートだから」大したことはできない、と書いてあってこれはニートの差別じゃないのか?でも後で「まったく何もできないわけじゃない」と続いたのでホッとはしましたが。

この集落には平均年齢80歳越えの5人が住んでいます。

新米住人には地元を知り尽くした人の助けがなければ生きていけないでしょう。それはニートたちもよく分かっています。あらたさんはその関係について彼流に言います。

地域おこしをしようなんて思ってないし、変革を起こしたいわけでもない。僕らは本当に、ただ平和に暮らしたいだけだ。
地元の人も(略)何かできるなんて期待しない。
だから地域を挙げて歓迎されることもなかった。
でも、疎ましく思われることもなかった。

余計なもの(ニートたちにとって、誰かの思想・信条)もなくただ平和に暮らしたい……。そう考えることが許される場所が「山奥」です。

都会ではなにかと社会に組み込もうとされますから。

 

あらたさんが山奥ニートになる最初の後押しは、東日本大震災でした。

大学”卒業”間近に、就職する友人から気ままなドライブ旅に誘われました。友人はいま旅をしないと定年までできそうもないからと言ったそうです。なので震災が起きても、そのまま旅を続けたそうです。

定年退職するまでの40年間(略)我慢して働いて、その間に死ぬのだけはごめんだと思った(略)本当の安心というものは、いつ死んでもいいような心構えをすることなんじゃないか。そのために好きなことをやって、死ぬ瞬間に後悔しないようにしたい

震災で「死ぬこと」「生きること」について考えた人は多かったんじゃないでしょうか。

我慢して働いて、かえって余計なお金を使ったり体を痛めたら本末転倒。そのための病院通いでさらにお金と時間が奪われる……。大震災で人生が変わった人は多いですが、あらたさんもそのひとりでした。

山奥の生活は”清貧”というわけではなく(確かに金銭的にはギリギリなのですが)「どっぷり文明に浸かっている。」夜中までネットや映画を見ていたり、食べ物も「添加物が入っていても、おいしくて安い物を食べたい。別に長生きしたくないし。」

この辺が都会に住んでいたニートらしいですね。私は年齢のこともあって、最近は健康を意識して”体に良い”食べ物を食べるようにしてますが、心の奥では”お菓子食べたい、お肉食べたい”と鬱々していたことがこれを読んで気付かされたのです😲。気が向いた時には我慢せず、好きに食べることにしました。後悔しないように……。

山奥の生活はお金が限られているので、自然ミニマリストのような感じになります。ちなみに著者は自分たちのような存在はニートと言っても今までいなかったものだとし、ミニマリストやBライフなどそういったものが合わさった、新しい呼び名ができるんじゃないかと言っています。

この現代社会、ものはすでに余っている。

そんなに物がなくても生きて行けることは、多くの人がいろんなことをして伝えてくれています。

資本主義社会じゃ、みんな生活を人質に取られて、手足を縛られている。でもニートは違う。札束で顔をひっぱたかれても、働きたくないと言える。

あらたさんはただ平和に暮らしたいだけ、と言っていましたが、これって立派な”挑戦”じゃないでしょうか。