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今日はどんな本をいただきましょうか?

【新型コロナ「正しく恐れる」Ⅱ 問題の本質は何か】西村秀一 井上亮

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西村先生は別の著書でも言っていますが、世間で行われているコロナ”対策”は間違っている、と指摘します。

わたしはコロナ禍でずっとほったらかしにされてきた問題が噴出している、と思っているので【問題の本質は何か】のタイトルは大いに興味を惹かれました。

先生はそれを「リスクコミュニケーション」においています。

簡単に言うと情報伝達の仕方と内容です。これは対策が間違っているにつながります。

私が初めに予想したのとちょっと違った内容でしたが、これも大事なことなので読んでみました。

「正しく恐れる」とは「実体を直視せよ」ということです。もちろんウイルスのことですが、これって難しいですよね。

なのでコミュニケーションの大切さにつながっていきます。伝える側として、国・自治体や関係機関とメディアがその役割を担いますが、ブログではそれについて西村先生の考えを取り上げてみます。

情報発信は、その結果を予測して、情報の受け手にどう捉えられ、どのような行動をもたらすかまで考え抜いてなされるべきです。

これを踏まえて一般の人には「わかりやすく」発信するのがいいとします。確かに「生の情報」でも難しい用語が並んだものを読むか?と言えば無理でしょう。

でもここで気を付けなくてはならないのがわかりやすさの危険性です。

わかりやすいゆえに受け手が都合の良い部分だけを受け取って、あとは無意識に排除しかねない。これがいつまでたっても間違いが改まらい原因の1つかもしれないのです。

さらに「メディアが都合の良いところだけ取り上げる」性質があることも頭に入れておかなくてはならないでしょう。

先生にインタビューしている井上氏は「メディアは〔組織として〕上に行けば行くほど素人」と指摘。「単なる経済活動のひとつでしかないメディアなんて、まともな未来はない」と先生は痛烈に批判しています。

ここが難しいところなんですが、理想のジャーナリズムについて「自分の判断で正しいと思ったものを正しい、間違っていると思ったことを間違っていると、世間に対して言うのがジャーナリスト(略)曲げて伝える、なんていう記者はいないと思いたい」。

この姿勢は自分の仕事に対して”責任を取る”ということですが、その判断が本当に正しいか、偏っていないかの検証は並大抵じゃできないし、またバッシングを恐れて長いものに巻かれろ的になっているところもあると思います。

逆に「隠蔽と批判されるのを恐れる人たちは(略)とにかく情報はすべて出した方が無難だという心理」が働いて、よく考えもせず情報の垂れ流しをしている向きもあります。

それによる弊害をまったく考えずに、情報さえ出しておけば批判から免れると思っている」。

これは国・行政にも言えますが、私たち市民をバカにしていると思いませんか?

何年も前からそうですが、テレビの情報番組って”偏り”が感じられます。井上氏は「情報を扱うプロではないお笑い芸人が司会を務め(略)タレントなどが思いつきや感情のまま意見を垂れ流している番組の情報に翻弄されない」と受け手に注意を呼びかけます。

実は私もこうした”まとも”と思っていた時事問題を扱う番組を見てました。でも司会者の発言に?を感じるようになり、次第に見るのをやめました。

いくらその人が例えば多数の新聞を読んでます、とアピールしたところでやっぱり何を感じてどう伝えるのかは難しいと分かりました。

怖いなと思ったのが、スーパーコンピューターを使ったシュミレーションってあるじゃないですか。

コンピューターだから間違いない、と単純に信じちゃう。しかし先生は「使い方がひどい」といいます。つまり”人間”が設定してる条件が偏っているそうです。「シュミレーションにはバイアスがある」。

コンピューターも人間が設定した範囲内の作業しかしないことはいうまでもないんですが、AIとかの登場でイメージ的になんとなく「絶対的」と誤解してしまします。

あれでアクリル板とか設置した施設も多かったでしょう(先生はこのアクリル板も無意味だとします)。

米国CDCからの情報として「ウイルスは物質上である程度の期間生き続けるけれども、それは実験上でのことで、実際の生活環境ではそれほど大量のウイルスはいないし、生存し続けることもないとしてい」ます。

「そもそも物の表面や一般の人たちの衣服にウイルスはいません」。

日本人て「ゼロリスク」を求める性質があるらしいですが、そういうところも間違った対策につながっているんでしょう。

「変異株」は危ないと騒がれています。それに「ゼロリスクを求めるようなことはやるべきではない」。「強毒化」については分からないとして「人を脅して何かよいことがあるのでしょうか。きっと何らかの意図があるのでしょう。」最後の言葉には(先生はそう意図していませんが)内海先生を思い出します。

毎日”今日の感染者は何人”とか、ただ”外出は控えろ”とか言われますが、これも意味はありません。「誰でも言えることでしかないものを各首長がくり返している(略)いちいち知事が出てこなくとも、副知事や部長クラスあるいは保健所長で十分」。

リーダーシップが問われているし、しょせん知事も感染症の素人なんだからそれを助けるブレーンの存在の無さも見え隠れします。先生は「こんな場合、こんなリスクがあります」と具体的な正しい説明ができていないとします。

確かにそう言ってもらう方がそうしなければいいだけです。

結局市民はどうしていいか分らない。「非常時には行政にある程度の強制力〔つまり権限〕を持たせることも必要」と先生は言うんですが、力を与えるにはそれを使いこなせるだけの”能力”がなければだめです。

私たちは(本書でも)さんざんその無さを知らしめられています。不信感はなかなか根深いものになってしまっていますよ。

人にはそれぞれ事情があって、それぞれの事情に応じて対策を立てるべき(略)それができていなかったということが日本の課題として明らかになった。

といっても”お上”ばかりを批判してもいけません。「われわれの意識の問題もある」。実は解決の糸口はここにあると思います。

ワクチンについて取り上げられています。西村先生は特効薬がない現時点の「希望」としています。「世の中が実質的にそれも劇的に変わらないと、この閉塞状況から抜け出せない(略)それを起こすことができるのは、特効的治療薬の出現かワクチンだけ」。

疑問に感じたのは「流行がある程度収まってくれば、世の中は変わるし元に戻れると思います。」なぜ「元に戻ろう」とするんでしょうか?コロナ以前には戻れません。それこそ、その意識を改めなくては「劇的」になんて変わりません。

それにいくら自分が指摘しても変わらないことに絶望的になっているふしもあるのに「世の中は変わる」と単純に考えておられる。

ワクチン問題を「副反応」だけで捉えてもいます。「希望」と言いますがその根拠が感染者数が減っているからです。それは本当にワクチンの”効果”なのでしょうか?さらにいっちゃえばそのデータは正確なのでしょうか?

残念ながら本書ではワクチンへの不安は払拭できませんでした。

ただその開発は別の問題を教えてくれました。なぜ日本は遅れているのか?

まず国の科学や医療に対する政策のまずさです。例えばノーベル賞など”利益が見えやすい”分野に研究費が偏って拠出されているそうです。地味だけど大切な基礎研究がそのために立ち遅れている。

基礎研究がきちんとなされていなければ、その先の研究だって進まないはずですが。

そして人材です。「ワクチン開発は、今回のコロナでおしまいではありません(略)若者の人口が減っていき科学分野で仕事をする人の絶対数が減ってきます(略)基礎の研究者を増やしていき維持していくメカニズムの再構築」が必要です。

「希望」にもどりますが、西村先生はそれがないことが「リスクコミュニケーションの失敗(略)危ないという警告だけを言うのがリスクコミュニケーションではありません。

私は勘違いをしてましたが「リスク」とつくのでてっきり警告を発するのがそうだと思っていました。西浦先生の本でもそう感じてました。

しかしそれを回避するための的確なアドバイスをするのも肝心なのです。

ここが難しいところなんですが、じゃ希望になるものなら何でもいいのか?

先生はヒトラーを例にとり、それ自体もよく考える必要があると注意を促します「あまりに明るい希望を熱望していると危うい」。

閉塞感が充満している時代はそれになびきやすいと思います。ヒトラーの時代もいまもそのへんは変わらないと感じます。

だからこそ、自分の頭で考え続けなければならないのです。問題の本質を。