【ダークツーリズム】井出 明
みなさんはダークツーリズムについてどんなイメージを持っていますか?
徐々にではありますが、耳にする機会が増えた言葉ですね。
本書【ダークツーリズム】は入門書として最適だと感じます。その始まりから日本における状況、そして具体的な場所を著者がめぐって紹介してくれます。
ここではさまざまな”悲しみ”を扱いますが、ブログでは第二次大戦を主にその他の出来事についても取り上げます。
まずはダークツーリズムとは何か?
概念としてはもう少し古いみたいですが、1990年代からイギリスで提唱され始めました。端的にいえば本書の副題でもある「悲しみの記憶を巡る旅」のことです。
そもそもダークツーリズムの悲しみはたいてい人の”死”が関わってきます。ヨーロッパではキリスト教の影響からか、死生観が共有されやすいんじゃないかと井出さんは分析しています。
本書を読めばよくわかりますが、井出さんはダークツーリズム=暗い・身構えて旅するものとは捉えていず(出来事に思いを馳せることは大事です)、あくまでも「観光」として、交通の便やモデルルート、さらにこの店の寿司が旨いとかの情報まで教えてくれます。
でもこういう態度は何となく”不謹慎”じゃないか、という感じが日本人にはあるようで、それがなかなかこの概念が今一つ定着しない要素の1つになっているみたいです。これについては問題点として後ほど触れます。
井出さんは大学で若い人たちにダークツーリズムを伝えることに「何らかの価値」を見いだしてはいたが、その正体はわからなかったといいます。
価値は雰囲気的に感じられそうですが、井出さんは安易に答えは出したくなかったんでしょう。
そこで起こった出来事は自分とは生きてる時代も違えば縁もゆかりもない人々で、でもその悲劇を想像できるのは人間だけです。
その悲しみに思いをいたすのは人間だけができる行為。それを促すことが「価値」ではないでしょうか。”人間である”ことの再認識が現代では必要となっている……。なっちゃっているんですね。
と、文章を読みながら考えていたら、こんな文が出てきました。
人間に(略)再生の機会を与える旅
例えば足尾鉱山鉱毒事件は”加害”と”被害”の地は距離にして80km離れていて、そのためか連携は図られていません。このような場所は「旅人(ツーリスト)という非常に”無責任”な存在が〔つながりを〕担う」と井出さんは言います。
旅人は自由に行き来でき、旅先で見たことを別の場所で話をする。受け入れるホストの側は、旅人の話で啓発を受け新しい道を模索する。
これはツーリストの「存在価値」ですね。
悲しみの記憶を巡る旅人たちは、その地に赴き(略)場の記憶を受け継ぐ。そしてそれを持ち帰り、また誰かに伝えていく。
ちなみに記憶の継承って、本の役割でもありますね。
問題点とは
先ほど触れたことと関連がありますが「地域の悲しみの歴史は、明るく楽しい観光のイメージや文脈では扱いにくい」のです。そもそも観光が明るいイメージで不動なのはなぜかは、長い歴史の中できっかけがあったはずです。
これは「ダークツーリズムが本質的に持つ困難」だとします。
しかしもっと複雑なのは、その地域の構造や記憶の継承のあり方そのものの問題もあります。
地元としてはやっぱりダークなイメージは避けたいと思っていることが多いんです。特に「行政や地元有力企業とコトを構えてしまうと、公はその記憶〔悲劇のあった場所・もの〕を消しにかかる。」
歴史は権力側によって作られるため、(略)当局が描く明るく元気な麗しい話で満たされることになり、悲しみの記憶(略)地域における弱い立場の人たちの記憶はかき消され、強者による記憶が刻まれていく
井出さんはダークツーリズムによって、地域を分断させようとしたいわけではもちろんありません。
しかし時に提言しようとすると、図らずも地域の”暗部”に触れざるを得ないことになってしまいます。
東日本大震災についても(ここからダークツーリズムという言葉が発信されるようになった感じですね)「復興過程における行政の腐敗や住民間の軋轢といった影も扱う(略)『明るく元気な被災地』という考えとは相容れない」という事情が見えてきてしまいます。
こんな事が分かってしまうと、別の”悲しみ”が募りそうで、情報発信という面からも本当に「明るく元気」なのか不信感を抱いてしまいます。
日本を旅する
まずは”屈指の観光地”北海道から。日本最北端の地、稚内の公園にある「九人の乙女の碑」。
第二次世界大戦当時、ソ連は日本と不可侵条約を結んでいましたが、1945年8月、とうとう同国は宣戦布告、南樺太に侵入しました。
そこから本土に情報を送り続けていた女性たちがいましたが、脱出することは叶わず、自決を促す毒薬が渡されましたー。
井出さんはダークツーリズムの対象について「理解するためには、それがどの程度の距離なり、大きさなりを持っていたかということを知る」必要があるといいます。
ここも距離的な問題でしょうか、知っていたという人はあまりいないでしょう。でも追い詰められた一般市民は場所を問わず、大概自決させられていたと思います。近代戦が否応なく一般市民を巻き添えにする悲劇を伝える場所の一つです。
――晴れた日にはここから、樺太が望めるそうです。
南下して、小樽へ―。ここもシックなイメージの観光都市ですが、高島地区というところは陸軍の「特攻艇マルレ」が配備されていた場所です。
井出さんは船からこの地を眺めました。
極限における若者たちの生と死の臨界を感じつつ、自分自身の命の意味や生き方を考える(略)七十年前の地域の記憶が自分の体と一体化する
一体化という”錯覚”ともいえる感覚が、後に体験として伝えていくのに一種のリアリティーを持ってくるんじゃないでしょうか。
でも、ここにしてもその他の場所にしても、今ではとても悲惨な現場だったとは思えないくらい”しずか”です。
旅としてのダイナミズムは、風景の美しさと現実〔過去〕の悲劇とのコントラスト
私も旅先で感じたことのある、なんとも言えないズレは、こういうことだったんです。
次はいっきに最南端の西表島へ―。リゾート地としていまや沖縄を代表す地の一つですが「地域にも、光の部分があれば、必ず悲しみを湛えた影の記憶もある。」観光地として栄えていればいるほど、影の部分は濃く見えるでしょう。
西表島の南風見(はえみ)という地に第二次大戦末期、旧日本軍によって波照間島の住民が強制移住させられました。
実は八重山諸島の人々の間には「ここから先へは行ってはいけない」という戒めがあり、とても人が住める所ではないことは知られていたのです。でもなぜか強制移住。
のちに「移住は、単に軍がその権力を示すためにのみ強行したのでは」と人々は言っています。あながち単なるうわさじゃないかもしれません。そこに戦争の悲劇があるのです。
案の定、移住者の間でマラリアが大発生し、3分の1が亡くなったといいます。
沖縄戦終結後に波照間島の人々のリーダーが、事件を忘れないように建立したのが「忘れな石」。
地上戦を体験した沖縄の人々は、やはり本土とは違う戦争への感覚があると思います。沖縄へ旅に行くなら現地でしか味わえない感覚を味わいたいものです。
次は戦争ではありませんが、現在にも起こっている悲劇につながる地としてご紹介します。
北海道へ戻り、サロマ湖から内陸へ入った「栃木地区」。「栃木」は察しの通り栃木県と関連があり、その移住者が開拓した土地。しかし事情が違うのです。
はじめに少し触れた、足尾鉱山鉱毒事件の環境汚染で、移住を余儀なくされたのです。
開拓は”明るく元気な”イメージとは裏腹にかなり苛酷です。ただでさえそうなのに、半ば無理やりですから脱落者が続出しました。帰郷運動が起こり、それは2世にも及んだといいます。
この地は”環境汚染史”ともいえる背景があります。
井出さんは福島第一原発事故で故郷を離れざるを得なくなっている人々とシンクロさせています。「環居汚染の持つ業の深さ」を感じるといいます。
過去の出来事を知って、現代の問題を考えることは結局”正しく伝えられていないことの悲劇”の再確認でもあるんです。ダークツーリズムの意義は皮肉にもこんなところにもあります。
悲しみの記憶の断絶が(略)新たな悲劇を生まないためにも、その記憶を確かなものにすることは非常に重要な意義を持つ。
なお本書には、著者の故郷である長野県や(ここもダークなイメージは少ないですが)スマトラ島の巨大地震があったインドネシア、韓国やベトナムといった外国の地も取り上げられています。これらへ旅に出る時は参考にしていただきたいです。