ブックメニュー★「本」日の献立

今日はどんな本をいただきましょうか?

【食禅(じきぜん)】柿沼忍昭

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前々から、今の食は乱れている!と感じていました。

まず市販品は味が濃い―ものが多いし、飲食店もお客さんに気に入ってもらうためか、その傾向がある感じがするんです。

でもまず素材を味わうことが一番!でないと調味料を食べてるみたいじゃないですか。

私の家族はまさに濃いものが好きで、私は薄味。けんかになります😟

「和食」は世界的なブームですが、本当の和食とはどんなものか?日本人の私たちが案外考えていないような気がして、本書を読んでみました。

 著者の柿沼さんは永平寺で修行されたお坊さん。永平寺は言わずと知れた、曹洞宗の開祖道元禅師が開いたお寺。

柿沼さんはここで「典座(てんぞ)」という仕事(修行)をされていました。超簡単に言うと料理を作る人。

道元禅師は食についての決まり事を細かく書き残しています。ほんとに細かく。

これは作ることも食べることも単なる食事ではなく、修行と捉えていたからです。食を仏道へいたる修行と考えたのは、道元禅師が最初でしょう。

【典座教訓】と【赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)】という二冊の書物にまとめられています。

【典座―】のほうは作り方【赴粥ー】は食べ方の決まりが書かれていますが、本書【食禅】はその解説本といえます。それに柿沼さん独自の解釈があって構成されています。

今回は食べ方が気になっているので【赴粥飯法】を中心に心に響いたことを取り上げます。

柿沼さんは「日本の食事作法の原点は、道元禅師の【赴粥飯法】にある」といいます。

いま目の前にある食べものとどのように向き合うべきなのかという、食との向き合い方を説いたのが【赴粥飯法】の真骨頂。

さまざまな食べ方の決まりの中で、柿沼さんは禅師がこだわっていたと思われる”一度にたくさんの食べ物を口の中に詰め込まない”ことは、よく味わうことはもちろん「舌や胃で思考しながら」「食べものを細胞レベルで味わえ」と解釈しています。

柿沼さんはときどき科学的な表現をされますが(得意な分野なんでしょうか)、口の中がいっぱいだととても思考なんてできないですよね。

また食べることは「命を最大限、味わい尽くす」ことが非常に大事なので、そのためでもあります。 

いや、しかし私もまだ口の中に食べものが残っているのに、次の食材に箸が伸びてます……😌少量ずつにすれば消化にもいいし結果健康にもつながるのに。

現代人の食べ方の別の問題を指摘されています。「〔なぜ〕食べすぎてしまうのでしょうか。(略)私がいう意味での完食をしていないからだと思います。つまり、心底、食べ終わっていないのです。」

この答えが一章のある項のタイトルにありました。

心の飢えをしのぐために、際限なく食べてはいないだろうか?

会社からストレスを抱えたまま家に帰ってきた時は、お菓子をこんな風に食べています……。そんな時は思考もせず、だらだら食いになっています。心の状態に気を向けるべきと柿沼さんはいいます。

単なる食欲を超えた食べ方、それができるのは人間だけ

面白かったと言ってはなんですが、雲水(修行僧のこと)のような仏に仕える人たちは、常に集中力をもって修行をしているイメージがありました。

でも明日の献立が掲示板に張り出されるそうですが、それについて「あした何が出てくるかわからなければ、それが気になって、心が乱されたり、修行に集中できなかったり、といったことになってしまいます。」

修行の身とはいえ”人の子”なんですね。

柿沼さんはまた「道元禅師は『精進料理の元祖』」といいます。

お寺の朝食はお粥が出されるのですが、お粥には十の功徳があるといいます。

例えば「力(りき)」は体力がつく、「寿(じゅ)」は寿命をのばす、「楽(らく)」は体に負担をかけない。こういうのもあって「詞清弁(ししょうべん)」は弁舌が清くさわやかになる。お粥をなめちゃいけませんね。

「禅師にとっては、何を食べるかではなく、どう作るか、どう食べるかが重要なことだったのです。究極のグルメとは、そういうもの」

その究極を追求するために「当時の永平寺はラボラトリー(実験室)」だったのではないか。そこで仏道修行としての食べること、作ることの実験を展開した、と柿沼さんは解釈されています。

道元禅師が徹底して食べることにこだわったのも、仏道とはつまるところ、命〔食材〕との向き合い方だという確信があったからだと思います。

 雲水たちが一言もしゃべらず食事をしているところをテレビで見たことがありますが、沈黙の中だとそういうことが考えられるものです。私もなるべくテレビとか見ないで(上に書いたテレビは食べながらじゃありません)食べるようにしています。